がっこう【学校】
■学校【学校】
一定の条件に合う人を対象として、何人かの教師が組織的方法でそれぞれの目的に応じた教育をするところ。
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学校って別に行っても行かなくてもいい時代がもうじき来ると思う。
てゆうか実質的には今も行っても行かなくてもいい。
だって、記憶力で勝負する時代もう終わってるし。
記憶力はどんなに頑張ったってAIに負ける。
だからここは共存。人工知能に調べてもらいましょう。
電卓使えたら筆算できなくてもいいし、グーグル翻訳で英語もまあいける。
漢字だってググったら出て来るし、微分や積分を使って生きていく人なんて人口の1%もいかないんじゃないの?
そしたら学校の勉強ってほぼ無駄ってことになる。
同じ時間、同じ場所で、同じ講義を聞いていることにどんな意味があるんだろう。
スマホの使い方とか情報の調べ方とか勉強して実際やってみるのが一番勉強になるじゃん。
みたいなことをホリエモンが言ってた。
教師やってた私もそう思う。
席に座りにくい子もいる。
自分の興味の赴くままにいろんなことしたい子もいる。
それを「協調性」と言う名のもと、一度に同じ教室に集めて同じ話を聞かせて、聞いてなかったら「聞いてない奴が悪い!」なんて傲慢にもほどがないか?
帰りたい子は帰ればいいと思う。
授業受けたくない子は受けなくていいと思う。
それはそれで受け皿と言うか、そういう場所があればいいのになぁ。
「学校」は行っても行かなくてもいい場所。
でも。だからこそ。「学校」が行きたい場所じゃなくっちゃ。
子どもにとっても、先生にとっても。
今「学校」はどちらかと言えば「しゃーなしで」いく場所になってるんじゃないかと思う。
先生にとっても子どもにとっても。
それって絶対面白くない。
先生が楽しくなくて子どもが楽しいはずないし。
それぞれの先生が楽しくできるように、もっともっと学校は自由になればいい。
「こうしろ」「ああしろ」と上から言われて、隣のクラスと合わせろと言われて、何が楽しくて先生できる?
自分の気持ちよりはるかに「保護者」「世間体」「他の先生の目」を気にしなくちゃいけない。
いやもう、先生が「自分の気持ち」で行かなくて、どうやって子どもたちが自分を大事にできる?
これから必要なのは「正解」じゃない。
自分を見つめる力。自分がどう思うか。
情報が少ししかなかった時代は「正解」があったのかもしれない。
でも今は違う。
いろんな目線があって、いろんな考えがあって、同じ情報でも見方を変えれば180度違って見えることもわかってる。
じゃあ何が大事かって自分がどの情報を採用するかっていうセンス。感覚。
それを磨くのに自分が自分である必要がある。
周りに「正解」はない。
自分の中にしか。
それをまず先生に見つけて欲しいと思う。
正しさよりも楽しさ。
「楽しい」ってすごく大事な感覚だと思う。
それってほぼほぼ正解だ。
その先生の楽しさと子どもの楽しさが一致すればいいし、一致しないならしないで、子どもが「この先生は嫌だったな。」って思えればいい。
そのぐらいの感じで先生が人間であれたらいいなと思う。
子どももね。
約束しなくても人間同士が毎日出会って喋ったり遊んだり勉強したりできる場所として「学校」が存在したらいい。
別に行っても行かなくてもいいけど、やっぱ行っとこ。
好きなあの子にも嫌いなあいつにも会えるし。
みたいな軽い感じで学校に行こう。